神様の声の聞こえ方。
先日、このブログを読んでいるある人物から、半嗤い気味で質問された。
「ねぇ。神様の声って、どんな風に聞こえるの~?」
ふん。
馬鹿にしているのが、見え見えである。
だから、アタシは、
愚かさの微塵もない真剣な顔で答えてやったんだ。
「生きている人の声は、耳から聞こえる」
「それ以外の存在は、耳以外から聞こえる。頭の中に響く、又は、感じる」
その人は、5秒くらい固まり、「ふーん」と云って、足早に去っていった。
少しだけ、鼻で嗤われた気がする。
ま、こればかりは、しょうがない。
信じるか、信じないかは、その人の自由だ。
アタシとしては「真実」を語っているつもりだが。
経験のない人にとっては、インチキか恐怖でしかないのだろう。
それが、自分の「五感」では確認できないこととなれば、
一生、感じることのできない現象なのだから。
出産経験のないアタシが、
「出産の痛みは、鼻からスイカを出すようなもの」と説明されても、
本当の意味では理解できないのと同じである。
「スイカは無理だろ、せめて、メロンだろ」と思っちまうしな。
霊聴(れいちょう)。
アタシのブログで登場する「おじさん神様」や「もこり神様」の声は、
勿論、耳では聞こえない。
身体の中に響く声は、自分の声にも、他人の声のようにも思えるが、
決して「音」ではないのである。
亡き人や守護霊など、目に視えない存在の声を聞きとれることを、霊聴(れいちょう)と云う。
霊視(れいし)なら、よく聞くけどな。
霊聴の能力があると、
「生きている人の心の声」も聞きとれることもあるそうだ。
実際、アタシも、視えない存在だけではなく、
この場にいない人の声や、
喋っていない人の声(心の声)を聴いてしまったことがあるんだ。
そして、アタシが、本当に不思議だなと思うことは、
神様や霊の声が届くことよりも、
むしろ、「聞こえる筈のない、生きている人の声が届いてしまう」ことの方なんだ。
生きている人の声の聞こえ方。
不思議な経験がある。
親友は、癌を患っていた。
彼女は、辛い闘病生活が続いていたが、「絶対に治る」と信じ、強く生きていた。
余命宣告後、
自宅に招いて貰った時には、もう彼女は歩けなくなっていたけれど。
それでも元気一杯、明るくお喋りしてくれて、
生き抜く事を諦めない、素敵な女性だった。
彼女の自宅を訪問してから、数日後。
時は、丑三つ時(うしみつどき)だ。
(丑三つ時については、第10柱『丑三つ時に会いましょう』を参照)
自宅で寝ていたアタシの「耳」に、
ここにいる筈のない彼女の「声」が、はっきりと聞こえたんだ。
「まこチャン、まこチャン」
姿は見えないが、誰かがドアの陰に隠れている気配がした。
その黒い気配は、膝をつき、背中を丸め、じっと息を潜(ひそ)めている。
「アタシね。頑張ったんだよ」
「頑張ったのだけれど……」
一瞬、彼女の声が詰まる。
「もう、行くね」
その3日後。
彼女は、静かに旅立って逝った。
そうか。
目に見えなくても、
実際はこの場にいなくても、
例え、危篤状態の人でも、
「生きている人の声」は、きちんと音として、「耳」から聞こえるんだ。
そして。
今はもう。
彼女の声は「耳」では聞くことは出来ない。
残念だが、「身体の中に響く」方に変わってしまった。
そう。
生きている人の声は、きちんと聞こえるんだ。
ましてや、隣にいる人の声や、
大切な人々の声は、
耳を塞がない限り。
心を塞がない限り。
きちんと聞くことが出来るんだ。
だから。
きちんと聞かなければならない。
受け取らなくちゃダメなんだ。
そして。
亡くなった親友には、こう伝えたい。
また、声を聞かせてよ。
身体の中に響くだけでいいからさ。
つづく
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