水の中。
水中から見上げる太陽は、何て美しいのだろう。
揺れ踊る波間をすり抜けた光の帯が、
幾重にも重なり合い、
宝石の矢のように降り注いでいる。
その時、アタシは、薄れ行く意識の中で、
うっとりと水面を見上げていたんだ。
あれはまだ、
アタシが小学校低学年の頃の話だ。
暑い暑い夏休み。
父と姉の3人で、市営プールを訪れた際に、
アタシはプールで溺れてしまったのだ。
周囲には、姉を含め多くの人がいたが、
誰にも気づかれず、一人、静かに沈んでいた。
不思議だな。
さっきまで慌ててモガいていたのが、嘘みたいだ。
何かを掴もうと必死に延ばした両腕は、
もう水中を切り裂こうとはしない。
水中で叫ぼうとしていた唇も、
今は、薄く閉じられていた。
ゆらゆら。きらきら。
綺麗だな。
ひらひら。きらきら。
アタシも踊る。
アタシ、死んじゃったのかな?
ふと、そう思った。
だって、ずっと水中で沈んでいるのに、全然、苦しくないんだもん。
泳げないから、浮き輪を使っていた筈なのにね。
その浮き輪がアタシの足首に引っかかり、水中で逆立ちした形のまま、顔を上げることが出来ないでいるんだ。
最初は、ガムシャラに水中をのた打ち回ってみたが、すぐにチカラ尽きた。
そのうち、なーんにも怖くなくなって。
とっても静かで、幸せな気分。
心も身体も、凄く気持ちがいい。
何だか、
空に墜ちていくみたいなんだ。
じりじりと水底に向かい沈むアタシは、
殆ど幸福な気持ちで、水中から光のダンスを眺めていたんだ。
どちらが天国?
何かが猛然と向かってくるのが見える。
父だ。
プールサイドで寝転んでいた父が、アタシの異変を察知し、
プールに飛び込み、助けに来たようだ。
父は力づくでアタシの身体を引っ張り上げた。
無言のアタシ。
だけど、心の中では憤りを感じていたんだ。
ねぇ、やめてよ。
アタシ、今、とーっても気持ちがいいの。
プールサイドで、背中を強く叩かれた。
呑み込んだ水を吐き出し、アタシは、条件反射で深く息を吸い込む。
その途端、鼻の奥がツンとなり、経験したことのないような苦しみがアタシを襲った。
咳が止まらない。
喉と胸が、焼けるように熱い。
痛い! 苦しい!
鉛のように重い身体。
身体の重心が、一気に一番下まで降りたような気がした。
でも、おかしいじゃないか?
空気は人にとって必要だって、学校で習ったよ。
だから、溺れた時は、怖くて、必死で、手を伸ばしたんだ。
だけど、もうダメだと受け入れた途端、
空も、水も、太陽も、すんごく綺麗に輝いて。
なのに。
助けられて、また空気を手に入れた途端、
こんなに痛くて苦しいものなの?
え? もしかして。
人は、生きている方が、苦しいの?
きっと、あっちの世界が天国で。
こっちの世界が、修行を兼ねた地獄なんだ。
アタシの少し歪んだ「死生観」は、
きっと、ここがスタートなんだと思う。
人生は苦しい。
あれから、
ずいぶん遠くまで人生の旅路を歩いてきたが。
アタシは、あの水の中ほど、
心が安らぐ静寂を味わったことはない。
だからと云って、
じゃあ、死んじゃおうとは、不思議と思わない。
どうやら、生き抜くことが、
アタシに課された厄介な宿題のようだ。
本当に、生きることは、苦しいことばかりだ。
大人だろうと、子供だろうと。
男だろうと、女だろうと。
理不尽、不平等は当たり前。
人生は不条理に満ちている。
それでも、
負けるもんかと、這いつくばりながら、頑張って生きていると、
たまに、ご褒美みたいなことも訪れるんだ。
少しだけ、心があったかくなったり、
少しだけ、幸せな気分になったり、
少しだけ、愛してみたり、
少しだけ、愛されてみたり、
もう少しだけ、頑張ってみようかなと思ってみたりもするんだ。
アタシがいつか死ぬ時に。
また、あんな風に、綺麗な静寂に包まれるのかな。
だとしたら、
その前に、
あの時、見た美しい光景を超えられるような景色を、
今の世界(地獄)でも見つけてから、
あちらの世界(天国)へ行きたいと願っている。
そんなご褒美も、
頑張っていれば、
いつか、きっと、
貰える気がしているんだ。
つづく
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