第71柱 『恐怖を感じる3分前』

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恐怖を感じる3分前。


アナタは、幼い頃の記憶を、何歳くらいから持っているだろうか?
幼児期健忘と呼ばれ、3~4歳以前の記憶を覚えている人は、殆どいないそうだ。


アタシの場合。
幼少期の、日常の出来事は忘れてしまったが。
恐怖を伴う体験だけは、鮮明に覚えている。


怖い犬に手を噛まれたこと。
父の同僚が、隠れて、アタシの掌にタバコの火を押し付けてきたこと。
早朝、母と訪れた静かな海が、母を連れ去りそうで、怖かったこと。


どうやら「恐怖体験」がスイッチとなり、恐怖を感じる3分前くらいの記憶から、鮮明に、そして強烈に脳に刻まれ、離れないようだ。


不思議なのは、刻まれる記憶は、恐怖を感じた「後」じゃなく「前」ということ。
恐怖体験の「後」のことは、あまり覚えていない。



最古の記憶。


アタシの最古の記憶は、幼い頃、歩行器ごと縁側から落ちた記憶である。
伝い歩きを始めたばかりの赤ちゃんの頃の記憶なんて、大人になるにつれて、忘れてしまう筈なのに。


が、この時、アタシは、相当怖かったようで。
アタシの脳には、恐怖を感じる3分前の記憶が、鮮明に刻まれてしまったようだ。


麗らかな日差しの昼下がり。
テレビを観ている母の背中。
髪はアップにしている。

お母さん、可愛いな。


母は、エプロンをしたまま、ドラマのような番組に見入っている。
アタシは一人退屈で、歩行器についている「おはじき」で遊んでいたが。

こんな子供じみた玩具で、騙されるもんか。
よーし、冒険でもしてやろうと縁側の窓をこじ開け、歩行器のまま一歩進む。


車輪が引っかかり、右斜めに傾きながら、縁側の下へと落ちていく。
え? なに?
壁や床が、スローモーションのように目に映るが、自分の天地はわからない。
ああ、そうか。
心は遠いところから来たけれど、自分の身体は、赤ちゃんだ。

冒険だと? まだ早い。浅はかな自分が、情けない。
そして、ガチンと頭を激しく打ち付けた瞬間、星のようなモノが瞬いた。


母の叫び声が響く。
「あぁっ! まこちゃーん!」



記憶はここまでである。

特筆すべきは。
記憶の中のアタシは、身体は赤ちゃんだけど、心は大人だということ。
体内記憶でもあったのだろうか?



怖い体験が記憶として脳に刻まれるメカニズムの研究は、かなり前進しているそうだが。
完全なる解明には、未だ至っていないようだ。


幼少期の怖い体験など、出来れば、忘れてしまいたい。
だけど。
もう会えることのない若かりし母の美しい姿を、
写真ではなく、自分の脳内にしっかり記憶させてくれたのは。
うん、悪くない。

つづく

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