三代目。
「酒の一滴は、血の一滴!」
いつものフレーズを叫びながら。
グラスを逆さまにして、最後の一滴まで、己(おのれ)の舌に流し込んでいる女性がいる。
彼女は、活動写真プロデューサー。
創業100年を超える老舗映画社の三代目だ。
1910年(明治43年)創業。
無声映画の制作・配給、活動写真の上映から始まり、
子(二代目)、孫(三代目)へと受け継がれた現在は、
活弁の伝統を守るため、弁士・楽団による活動写真のライブ上映等を中心に活動している。
そんな彼女は、いつも元気一杯。
愛嬌のある顔立ち、人一倍食いしん坊なさまは、『不二家のペコちゃん』を連想させる。
(なので、このブログでは、彼女のことをペコちゃんと呼ばせていただく)
アタシよりも少し年上の姉さんだが。
老若男女、誰からも「ちゃん」呼びされる愛されキャラだ。
本家本元のペコちゃんは、「夢の国出身・永遠の6歳」らしいが。
映画界のペコちゃんは、「大阪出身・精神年齢は永遠の中学生」なんだ。
活弁。
映画の誕生は、1895年(明治28年)フランス・パリ。
リュミエール兄弟が開発したシネマトグラフにより、初めて、大衆の前で、スクリーンに映像が映し出された。
それは、人が歩いたり、馬車が向かってくるだけの短い映像だったが、当時の観客は歓欣鼓舞したという。
現在から、わずか127年前の出来事だ。
映画誕生後、初期の頃は、音のない無声映画(サイレント映画)での上映だった。
欧米では、無声映画にオーケストラやバンド演奏をつけて上映していたのに対し、
日本では、楽士による音楽に加え、弁士の粋(いき)な語りが入る。
これこそが、世界にはない、日本独自の映画文化「活弁(かつべん)」である。
今では観る機会が少なくなった「活弁」だが。
これが、なかなか面白い!
明治時代のフランス・パリで、「動く写真」に人々が歓欣鼓舞したように。
現代人には「活弁」が、新鮮な喜びと驚きで迎えられるかもしれない。
守るべきもの。
そんな活弁文化の保存と未来への展開を担っている三代目(ペコちゃん)も凄いのだが。
二代目(ペコちゃんの母親=ペコママ)は、その100倍スゴい!
実父が映画社を創業。
映写機やフィルムに囲まれ、カツドウ屋の父の背中を見て育った。
映画館で知り合った夫と結婚、夫婦で父の仕事を受け継いだが、突然、夫が他界。
その後、女手一つで切り盛りしてきたという。
昭和初期になると、トーキー(音声入り)映画の出現により、無声映画は斜陽の一途を辿る。
上映は激減し、その後、テレビの普及により、過酷な運命は、更に加速していった。
可燃性のフィルムを保管していた為に、自宅が二度の火災にみまわれたこともある。
それでも「活弁を守り伝えて行きたい」と私財を投げ打ち、自主上映など精力的に行い続けたのだ。
ねぇ。ペコママ。
そこまでして「活弁」を守り続けるのは、どうしてですか?
「ほんまに大好きやねん。そやから、止められへんねんわ」
ペコママは、そう云って、柔らかく笑った。
「それに……」
「娘(ペコちゃん)が心を受け継いでいてくれやる」
父から子へ。
子から孫へ。
例え、フィルムは焼けてしまっても。
心は、強く、守られ続けている。
目に見えないもの。
アタシには心配なことがある。
ペコ親子は、困っている人を放っておけない。
与えすぎ、信じすぎなのである。
大勢の若い人たちに、食事をご馳走し。
売り上げは、全て、出演者に差し出し。
人に騙され、フィルムを盗られ。
アタシは心配なのだ!
そんなに与えてばかりで、生きていけるの?
もう少し、身を守ってと。
あねご神様が、静かに笑う。
「与えたからといって減らないの。むしろ増えるのよ」
「特に、目に見えないものはね」
なるほど。
人に与えた愛や優しさは、
いつか、増えて戻ってくるんだな。
逆に云えば。
「目には見えない」憎悪や企みも、
誰かに投げ与えたつもりでも、
消えない、むしろ増えて戻ってくるということか。
大きな愛が、
優しさが、
ペコ親子に舞い戻りますように。
つづく
コメント